| ”まちつくり”の公平感とグローバリズム |
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| 【1】歴史的にみる社会的正義と秩序の形成 ある時代が要求する社会的な秩序は、当時の社会生活を規定している社会的思想や習慣がもととなって形成されたものであり、この様な意味から歴史的な「正義」「秩序」の源をたどれば、西欧ではアリストテレスの説いた正義概念であり、中国では孔子や孟子など中国思想が背景となった理念が実用的に展開され社会的な正義感とか秩序が形成されてきたように思われます。 この秩序や調和は、人間以外の動物にとっては本能そのもののもつ秩序であり、動物は自然のもつ秩序に厳格に従うことによって生存を保ち、自然の秩序から逸脱する個体には死が待ち受けていると言う厳格な自然則の中に生きています。これに対し、人間は言語による思考によって本能の秩序から抜け出たのであり、人間に部分的に残っている本能は秩序形成の能力を持っていません。それどころか人間の本能が意志による本来の制御力を発揮できず管理不能になっている間は、欲望は歯止めを失って止まるところを知らず、社会生活における欲望の衝突と争いは不可避であり、やむを得ず人間は思考と言葉によって取決めを行いルールを設定し、それを正義と呼ぶように決めようという考え方になったと言われている様です。 近世になって、この考え方を徹底して主張したホッブズ氏は、人間は言語によって本能による秩序から切り離されてしまっており、そのままでは人間は自己欺瞞的な自尊心によって相互不信の状態に陥らざるをえないと説き、それ故に人間は自然の状態においては常に戦争状態にあると主張したのである。この主張のもとでは人間は、このような戦争状態を脱却するために相互契約によって国家間の正義を作り出すのであると説いています。 一方で(桂木隆夫氏によれば)このような人為の産物としての正義という考え方に対して、人間が理性という超越的能力によって創出すべき秩序や調和としての正義という考え方があります。 この考え方の代表的思想家はプラトンであり、プラトンは「正義を善のイデア=神的にして秩序あるもの」であるとし、人間は善のイデアを理性によって観照しうものであり、また善のイデアはある数的調和を示す概念として考えられており、経験によって得られるものではなく、むしろ経験を超えたところに存在する超越的概念であり、プラトンはこの善のイデアに従って個人が生活し国家が統治されるときに、個人の正義と国家の正義が実現されると考えたと言われます。 この「必要最小限の正義」と「普遍的正義」の対立に加えて、人間は本能の秩序を失った代償として競争の秩序を形成しうるのであり、この競争という行為の枠組みの中で正/不正が問題となるという考え方が一般的になっているようです。人間は本能による秩序を喪失したが、言語を用いることによって相互不信の状態に陥いっているだけではなく、むしろ人間には言語を使用する前提として自己と自己以外の外的対象をよりよく知ろうとする欲求能力が備わっており、この人間的欲求に基づく言語使用によって人間は競争という人間に特有の秩序を生み出すというものが現在における世界的な秩序のようになっているようです。 (しかし、今後は貪欲と直結し貪欲さを強化し続けるような競争ばかりではなく、貪欲を制御する競争という反対方向の競争も充分に考えられる時が来るのではないでしょうか、そんな期待も危機的状況の中のコミュニティではあり得るように思います。) このような見解の近世における代表的な人として D. ヒューム等がいますが、彼らは競争という秩序を convention(社会的因習、習慣、国際協定)とか、社会的信頼関係 reasonable expectation(正当な理由のある期待、可能性)として性格づけており,このような秩序の中においてのみ人間の行為の正・不正が問題となりうるとしたのです。 これらの背景を持たない社会、つまり国際協定もなければ、信頼関係なき社会間で行為の正当性を論ずることは全く無意味であり、地球社会には新しい秩序が必要になっているのは自明の理でありましょう。 そして、今までの議論の殆どは国際的政治の世界が舞台となっており、地球社会が有限の度を加え、且つ自己組織化というような課題が地球社会の主題になり、世界的にも地方分権が重視され地域コミュニティが主役になったとき、競争秩序を持って社会生活の規範とするには、どうしても理解が困難になる部分が多すぎるように思います。 |
<目次> はじめに. 【1】歴史的にみる社会的正義と秩序の形成 【2】有限の地球、意識段階そして国際社会とコミュニティのもつ課題 【3】社会的な再生秩序のための道筋 【4】砂漠と森林の思考世界―まちつくりの思考態度 【5】都市再生における新社会秩序の方向 |
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