| ←戻る |
社会的正義とは、社会的衡平(こうへい)とは、なにか |
| |
これをお読みになっている読者の皆さんは、社会的正義とは何か、或いは社会的衡平とは何か真剣に考えたことはありますか?
今日本では都市再生に関し、様々な議論がされています。まちつくりに関わるものとしてその殆どの問題点は、市民の心の内層に関わる問題が唯一最大の課題ではないかと考えてます。
地方分権が進むなか、新しい都市社会における「おおやけ」の父性こそ重要な視点です。そこには見失われた社会的正義、社会的衡平があります。
※これについては、「まちつくりの地平」第1回論説で詳しく述べています。
では社会的正義、社会的衡平とは何でしょうか?
ここでは、平凡社百科事典で「正義」と「衡平」について紐解いてみました。
|
|
|
|
正義 とはなにか |
|
[意義]
人間の行為を,正しい,正しくないというように判断するための基準が正義である。正義の古典的定義として有名なのは,ローマ法学者ウルピアヌスの〈各人に彼のものを与えんとする恒常的意思〉という定義であるが,さらにその源をたどればアリストテレスの正義概念にさかのぼる。アリストテレスは,正義とは均等的,〈価値に相応の〉ということであり,不正とは不均等的,〈過多をむさぼる〉ことであるとした。そしてそのうえで二つの均等があるとし,配分的正義と矯正的正義とを区別する。配分的正義とは,共同的な事物の配分に関する正義であり,配分における彼の価値にふさわしい分けまえを意味する。矯正的正義とは,取引の均等とか罪と罰の均等ということを意味し,たとえば取引において一方が不正に利益を得て他方が不正の損害を受けることがないということである。また犯罪における矯正的正義についてアリストテレスは,A が殴打され B が殴打する場合A は損失をうけ
B は利得をえている,そこで裁判官は
B から利得を奪い,罰という損失によってA
と B の均等化を行う,と述べている。〈各人に彼のものを〉または均等的ということによって正義概念を定式化しようとする試みに関しては,それが果たして実質的内容または基準を有する定式であるのかどうかという問題が生じる。もし〈各人に彼のものを〉という定式を形式的であり,この定式自体は何が均等であり,価値にふさわしいかについて何も語っていないと解するならば,正義は時代と社会が異なるにしたがって異なるものであり,絶対的正義は存在せず相対的正義のみが存在するということになる。これは正義の相対主義の主張であり,これに対しては普遍的正義を主張する側からの反対が存在する。
正義の概念は古来から法と不可分の関係にあるとされてきた。ギリシアにおいて法を意味するディケ dik^ と正義を意味するディカイオシュネdikaiosyn^
は密接に結びついていたし,今日でも
justice
は正義という意味のみでなく司法,裁判所の意味を有している。
[正義論の対立]
正義が均等や法と密接な関係にあるということは,正義がある秩序または調和を示す概念であることを示唆している。この意味で正しい行為とは基準やルールに従う行為であるばかりでなく,秩序や調和に従う行為であり,不正な行為とは秩序や調和から逸脱する行為である。(思想によって移動する秩序と調和)
この秩序や調和は,人間以外の動物にとっては程度の差はあれ一義的にはっきりしている。それは本能の秩序である。動物はこのいわば自然の秩序に厳格に従うことによって生存を保っているのであり,自然の秩序から逸脱する個体には死が待ちうけている。
これに対して人間にはこのような本能の秩序は望むべくもない。人間は言語を有することによって本能の秩序から抜け出たのであり,人間に部分的に残っている本能はそれだけでは秩序形成力を有しない。そしてここに正義概念が成立する機縁があるのであり,人間が実現しうるあるいは実現すべき秩序状態,調和状態とはいかなるものかが問題となる淵源がある。
しかしこの秩序と調和がなんであり,正義がなんであるかについては古来から対立が存在する。一方で,人間の本能は壊れている以上欲望は歯止めを失い止まるところを知らず,そのままでは欲望の衝突と争いは不可避であるとし,そこで人間は言葉によって取決めを行いルールを設定しそれを正義と呼ぶのである,という考え方が存在する。この考え方はソフィストにまでその源をたどることができるが,近世においてこの考え方を徹底して主張したのはホッブズである。ホッブズは,人間は言語によって想像の自然の流れ(=本能の秩序)から切り離されてしまっており,そのままでは人間は自己欺瞞的自尊心
vain‐glory によって相互不信の状態におちいらざるをえない,と説く。それゆえ人間は自然の状態においては戦争状態にある。そこで人間はこのような戦争状態を脱却するために契約によって国家=正義を作り出したのである。
このような〈必要にせまられた人為の産物〉としての正義という考え方に対して,人間が理性という超越的能力によって創出すべき秩序,調和状態としての正義という考え方がある。この考え方の代表的思想家はプラトンである。プラトンは正義を善のイデア=〈神的にして秩序あるもの〉であるとし,人間は善のイデアを超越的能力である理性によって観照しうるとした。善のイデアはある数的調和を示す概念として考えられており,経験によって得られるものではなくむしろ経験を超えたところに存在する超越的概念である。プラトンはこの善のイデアに従って個人が生活し国家が統治されるときに個人の正義と国家の正義が実現されると考えた。
この〈必要最小限の正義〉と〈普遍的正義〉の対立に加えて,人間は本能の秩序を失った代償として競争の秩序を形成しうるのであり,この競争という行為枠組みの中で正・不正が問題となるという考え方が存在する。人間は本能の秩序を喪失したが,言語を用いることによって相互不信の状態におちいっている狂ったサルではない。むしろ人間には言語を使用しうる前提として自己と自己以外の外的対象をよりよく知ろうとする欲求能力が備わっており,この人間的欲求に基づく言語使用によって人間は競争という人間に特有の秩序を生み出すのである。このような見解の近世における代表としては D. ヒュームと A. スミスを挙げることができる。
彼らは競争という秩序を convention とか社会的信頼関係 reasonable
expectation として性格づけており,このような秩序の中においてのみ人間の行為の正・不正が問題となりうると主張した。
|
|
|
|
衡平(equity)とはなにか |
|
衡平は法および正義と密接な関係をもつ価値理念である。法の理念である正義は〈等しきものを等しく〉扱うことを求める。各事例を場当り的(アド・ホック)にではなく,重要とされる一定の特徴に応じて類型的に扱うこと,すなわち,一定類型の事例に一定類型の取扱いを対応させる一般的準則に従って個々の事例を裁定することが正義の要請であり,法の一般性はその帰結である。
しかし,法が規律する現実はきわめて複雑,多様,可変的で,一般的法準則の創設にあたって,その趣旨に関連する現実の全側面をあらかじめ網羅的に勘案するのは人間の認識能力を超え,不可能である。特別の事情が存在したり,社会発展により著しい事情変更が生じたときなど,法準則をそのまま適用することが実質的に不当とみなされる場合がある。このような場合,法の改廃が必要であるが,立法による解決をまてないときは,法適用の段階で個々の具体的事例に即して法を実質的に補正することが要求され,その根拠とされるのが衡平の理念である。衡平は個々の事例に即した具体的妥当性をもつ裁決を要求する点で,普遍主義的・類型化的な正義の理念と対比されるが,衡平を正義理念と根本的に対立する原理と考えるのは誤りである。衡平は決して場当り的な例外の設定を許容しない。衡平は特定の事例を,その〈個性〉ゆえにではなく,法があらかじめ勘案できなかった重要な特徴をそれがもつゆえに,特別に扱うことを要求し,従って,同様の特徴をもつ他の事例についても同様の特別扱いを要求する。具体的現実からのフィード・バックによる既存の類型化基準の精緻化・改良が衡平の真のねらいであり,それは正義の普遍主義的要請をむしろ前提している。アリストテレスが法的正義の補正原理としての衡平を,ある〈種〉の正義よりも優れているが,正義という〈類〉を超えないとしたことや,イギリスで,硬直したコモン・ローの個別的補正として始まった衡平法が,確立された一般的準則の体系に発展していった歴史的経緯も,この点を確証している。なお国際司法裁判所規程38条2項によれば,当事者の合意によって,〈衡平と善〉に基づいて裁判ができるとある。
|
 |
|